【追悼集より】わたしゃ、谷間の百合の花 伊藤迪子

夫は急激に体が衰弱していった。口からの食物は全く受けつけなかった。水分はよく欲しがった(脳のはれをおさえる治療の影響であると聞かされていた)。あとの方になると長いストローから水を吸う力もなくなって、「氷、氷」としきりに氷を求めた。

この状況下で、夫に義母の死を知らせることを、私はためらっていた。数日前から義母は危篤状態にあること、そして前の日には、今晩か、明日の朝には逝くことになると、私には知らされていた。その言葉どおり、10月24日、午前4時10分、義母が亡くなったとの知らせが朝7時頃、届いた。朝8時、病院に行って、夫にどう言おうかと内心ドキドキしていた。しかし決心して努めてさりげなく言った。

「おばあちゃん、今朝4時頃に亡くなったって聖ちゃん(義妹)から連絡を受けました」
「そうか……」
「おばあちゃん、最期は苦しむこともなく、呼吸が少し荒くなり、それから大きく息を3回吐いてすっと亡くなった、ということでしたよ」
「そうか、よかった……」

夫は動揺を受けたふうもなく、実に淡々と、本当に安堵した様子であった。その様子をみて、私もホッと一安心した。

「今晩6時からお通夜なんだけど、私行ってくるね。おばあちゃんに言いたかったこと、兄弟たちに言いたいこと、あるかい?」
「うん、紙とエンピツ出して、オレ書くから……」
「ああ、でも、お父さん、今は少し書きにくそうだから、口で言って。私が書きとめてあげるよ」
「うん、そうだな。じゃ、用意はいいかい?」

そういって語りだした。

「山のつつじをうらやむなかれ、わたしゃ谷間の百合の花」

もう一度、同じ言葉をくりかえす。

「母さんが掃除などしながら、よく口ずさんでいた歌だ。母さんが小学校頃に先生から教えられたものだと言っていた。山のつつじをうらやむなかれ、わたしゃ谷間の百合の花。いい言葉だ……。母さんはその通りに生きたんだ。母さんはオレ達によくいった。どんな人に対しても、頭を低くしなさい、と。父さん、母さんのおかげで、家族皆本当に仲よくやってこられた。兄弟の仲のよいこと、それがオレの一番の誇りだ……」


言ったことをなるべく忠実にメモした。夫はメモしたことを言ってくれというから、その通りを言ってみる。

「これでいいかい?」

と聞くと、やや間があった。何かもう少し付け加えたかった様子であったが、言葉にならず、「うん」といったきり、やや疲れた様子で黙ってしまった。
しばらくたって、


「みっち(私のこと)、母さんの葬儀、頼むな。皆によろしくな」
「うん、大丈夫だよ。あなたの言葉、ちゃんと伝えるからね」
「大きい声で、しっかり歌ってね。頼むね。頼むよ」

私は日に3度、朝、昼、晩の食事時間ごとに病院に行くようにしていた。食事が食べられていた時は、食事の介助をしなければならなかったからだ。その頃はもう点滴だけで、食事介助の用はないのだけれど、夫のもとに少しでも長く居なければ、私の方が不安になる程の病状で、気が気でなかった。それで義母の葬儀も、私は通夜だけ出て、その夜のうちに余市に戻り、翌日の葬儀、出棺は息子たちだけに行ってもらうことにした。夫の兄弟たちも夫の病状を知っていたから、皆快く承知してくれた。

義母の葬儀は、前から予約してあった札幌北区の家族葬専門の建物で行った。こぢんまりしたレンガの壁の素敵な建物で、祭壇の飾りつけも白百合や蘭など心洗われるばかりであった。義母の子供(その夫婦)と孫、30人ほどの集まりである。音楽葬ということで、生のエレクトーン演奏の中で、おばあちゃんの生前の写真がスクリーンに映し出され、しみじみとおばあちゃんを偲ぶことができた。私は夫の言葉を伝えた。伝えながら、その言葉が皆の中にすっと浸透していくのを感じていた。夫は「しっかり歌って」と言ったのだが、「山のつつじをうらやむなかれ、わたしゃ谷間の百合の花」その歌の節を知らなかったので、かわりに賛美歌の512番をアカペラで歌った。

わがたましいの したいまつる
イエス君のうるわしさよ
あしたの星か 谷のゆりか
なにになぞらえて歌わん
  (略)
「私にとってイエス様はまさに谷間のゆりの花になぞらえられるべき存在ですが、おばあちゃんもまた谷間の百合の花なのだ、と今思います。目立つ所で咲き誇っている他の花をうらやむことなく、地味で目立つことがなくても、置かれた場所で、毅然と咲ききった谷間の百合の花です」

と付け加えた。
式後、エレクトーンを奏楽して下さった方が、私のところへ来て、

「私は北星女子校の出身で、賛美歌にはなじみがあります。今日歌った賛美歌の譜があれば、明日の葬儀にはそれを弾きたいと思っています」

と申し出て下さった。『賛美歌集』を持っていたので渡すと、それをコピーして帰っていかれた。
私はその日の9時頃まで会場にいて、皆と食事をし、語り合い、息子の車で余市に帰ってきた。
翌日の葬儀について、私はその実際を知らない。出席した息子の話である。出棺になる前、司会者は、ゆっくりと、しっとりと、こう告げたという。

「伊藤フミ、慈愛院生母照文大師(戒名)、いい母でした。いいおばあちゃんでした。これから山口の火葬場へまいります。お顔をみられる最期のお別れのときです。伊藤フミ、わたしゃ、谷間の百合の花」
出席した誰もが十分に納得した気持ちになれたという。

息子は言う。

「さすがは葬儀のプロだな。前の日の賛美歌をすぐ取り入れて演奏してくれるし、前の日の中で一番ポイントとなる言葉で最期をしめくくったのは、心にくい演出だったよ」

と。
私には、それは演出というより、司会者らの心くばりだと思ったし、彼女達が、マニュアル通りでなく、臨機応変に音楽や言葉を紡ぐことができるのは素晴らしいと思った。息子は、葬儀がすべて終った帰りに、おじさん夫婦(夫の弟)を札幌駅まで車で送った時の話もしてくれた。


「車中、色々の話をしたんだけど、最期に隆雄おじさん、こう言ったんだ。
『あの英の野郎(夫のことをさしている)はずるいんだよ。今日も出席もしていないのに、一番存在感を出しやがる。いないでいて存在感を出すなんてずるいんだよ』ってね」
「ふーん、なるほど……」


私はその言葉を聞いて感心した。夫は確かに葬儀に参加できなかった。しかし参加した誰の心の中にも、おばあちゃんが居て、そして夫も居たことが実感できた。出席できなかったけど、夫は主役としてしっかりおばあちゃんを見送った、と思えた。
そして隆雄さん(義弟)の言葉は乱暴だけど、兄(夫)に対する敬意と愛情がたっぷりつまった言葉なのだ、と思えた。

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