【追悼集より】ずっと生きてね 伊藤 迪子(妻)
日頃、礼拝の説教などを通して、「死」を見据えた話は割と聞いている方かなと思い、自分は「死」というものに対して、それを冷静に、あるいは甘んじて受け入れる覚悟を持っているかと思っていた
しかし、現実は違った。
私の「死」への思いは、頭の中で漠然と考えていた観念的なものにすぎなかったように思う。まあ、自分の死については、その時が来たら……、と想定していたかもしれないが、夫の死についその時どうするか、なんて想定外だった気がする。
夫が2013年9月2日、肝臓ガンの摘出手術を受けた時、私は(夫も)現代医学の技術の高さを、信じきっていたと思う。この手術が終わったら、この後の余生を健康に気を使いながら、夫婦お互いに助け合ってしっかり生きて行こうと決意していたように思う。
術後1ヶ月、主治医からは、「他への転移は見られない。あとは術後のリハビリを頑張るだけ」と言われ、夫も。「よし、頑張ろう」と思ったはずである。
柔道の指導者である夫は、身体のメンテナンスに関すること、身体を鍛えることに関しては専門分野だったようなところがあり、リハビリをすることは大好きだったはずである。ところが、術後1ヶ月過ぎたあたりから、どうもリハビリの時間が彼にはとても苦痛の時間のように見えた。食事も入れ歯が合わなくなって噛めなくなったためか、どんどん量が減っていった。ベッドの上で、身体を起こすこともできず、寝返りにも人手を必要とした。箸もうまく使えない。彼は新聞や雑誌を読むのが1番の楽しみのようであったが、目が見えにくくなったのだろうか、私に新聞を読んでくれと頼むようになり、もっと後になると読んでくれとも言わなくなった。(おかしいな、おかしいな……)と思いつつも日にちは過ぎていく。そして術後7週間が過ぎた10月21日、主治医は出張中であったので、別の医師が、この状況を不審に思ったのだろうか、脳のCT検査を行った。そして脳に大きな腫瘍(この時点で7センチくらいと言われた)が見られることが告げられた。
写真を見せられ、それはまぎれもない事実だと知らされ、愕然とした。
翌々日には更にガンは骨に転移していて腰部分の写真を撮って、ガンの転移を認めた。右肩部分を痛がるのは、そこに転移していると思われるが、もう検査するだけの体力がないので、しなかった。残っている肝臓にも転移を認める。この勢いは更に他の場所にも転移していく可能性がある。治療するとなれば、まずは肝臓のガンに抗ガン剤を投与して、それが効いたなら、可能ならば脳腫瘍の摘出手術ということになるが、これは余市教会病院ではできないので、脳外科のある病院へ移るということになる。今はとりあえず、脳の腫れをおさえる治療と痛みをおさえる緩和治療に専念する。「え!どうして?何時からそうなったの?何が悪かったの?」疑問が次々おこってくる。しかし医者は、「今更、それを言っても始まらない。今はどうするか、それだけ……」と言う。
10月28日主治医からの説明を、私と3人の息子で聞く。翌29日、3人の息子と余市在住の私の弟と安達先生(夫とは北星高校同期に勤めて以来の友人)に来てもらい、喫茶店の一室を借りて今後のことを相談した。
私の一番の気がかりは、夫にこの病状の事実をどう告知したらいいのだろう、ということ。
夫自身もなかなか回復してこない身体の状態に、しきりにつぶやくのだ。
「オレ、どうしたんだろうか」
「どうして元気にならないのだろうか」
「この痛みは、何からくるんだろう」
私は脳腫瘍、その他の事実を知ってから、こう問われると、どう言っていいのか、とても悩んだ。脳腫瘍の事実など伝えるのはとても酷に思えて、どうしても言い出せなかった。
手術後1ヶ月過ぎたくらいの時、夫は食べた物をすごく吐いたことがあって、その時、安達先生が病院を変えてみたらと提案したことがあった。その時はそうしなかったのだが、どうも回復が思わしくないことで、夫はこの病院に不信感を持ったのだと思う。「安達を呼べ」と私に言って、安達先生に来てもらって、病院を変える手筈をとってくれるよう頼んだ。安達先生はすぐにそれに応えて、いろいろ病院へ当たってくれていた。しかし、事はそんなに簡単に進むわけではないし、私には、夫はもう病院を変えてやっていける体力もないように思えた。しかし夫は、すぐにでも病院を変えられるように思うらしく、「安達はまだか?」「安達はまだか?」としきりにそのことを急いた。
その安達先生と私達家族の相談の結果、病院を移れるかどうかは別としても、もう1つ別の診断、いわゆるセカンドオピニオンを受けた方がよいという結論を得た。そして、そのセカンドオピニオンの結果が出た段階で夫に病状の全てを告知しようという方針を決めた。
すぐに、北大病院に診断を求めることにして、手続きを進めた。主治医も、セカンドオピニオンを受けることを奨めていてくれたから、診断画像や資料を早くに整えてくれた。
その診断がでるまで、2週間かかった。
それぐらいはかかるものだったかもしれない。しかし私達には、その期間がとても長く感じられた。
11月13日に診断が出たと思う。その間、病状はどんどん悪化していった。モルヒネを使って、痛みはおさえられていたが、そのぶん眠っている時間が長くなった。手足はむく黄疸症状が出る。肺に水がたまって、呼吸が苦しそうになり、酸素吸入が行われる。肺にも転移したということらしい。
それでも夫は、目が覚めている時は、いつも生きることに前向きで、何とかしたいと思っているようであった。リハビリの先生が来て。「つらかったら、やめていいのですよ」というが、必ず、「やります」と答えて、リハビリに応じようとしていた。そしてリハビリの先生に、「ありがとうございます」の感謝を忘れなかった。また、「柔道の帯を持ってきてくれ」と言って、それでなんとかして、自分で運動を試みようとしていた。本人に、「今、北大病院に頼んでいるから、その結果で病院をうつることができるかもしれないよ。それまでに体力をつけておこうね」と言うと、「よし、明日からオレごはんを食べる」と言い、「何か食べるものをくれ」としきりに言う。「何か食べられるものを口に入れていいだろうか」と看護師さんに聞くと「誤嚥すると危ないのでダメ」ということであった。 痛みが増してきたようなので、「鎮痛剤をたのもうか?」と聞くと、「いや、オレはガマンできる」 と言う。多分、モルヒネを多用すると生命を縮 めると思ったからだと思う。
北大からの診断結果は、「もうどんな治療も不可能」という予想した結果どうりであった。主治医に、本人に今の病状の全てを家族立ち会いのもと、知らせてほしい旨を申し入れた。
主治医からは 「伝えることはやぶさかではないが、今は意識レ ベルが低下してきており、話すとパニック状態に おちいることも考えられる。今告知するメリットはないと思われる。多くの死に臨んでいる人をみていると、死ぬ少し前に、不思議と落ち着く小康 状態が訪れることがよくある。その時を捕らえて話すのがよいと思う」と言われた。主治医の意見に従って、その時、すぐには告知することはあきらめた。
しかし、その後、告知するチャンスが訪れることはなかった。
意識レベルは低下していき、眠っていることが多い。起きると何かしきりに話すのだが、言葉は不明瞭になり聞き取れない。わずかに、「ありがとう」との言葉が聞き取れる時も…….。
11月16日からは、目を覚ますことがなく、声をかけても応じることがなくなった。このまま逝ってしまうのか。「死ぬ」ということをどう思っているのか。「死」を受けとめることができたのだろうか。
考えてみれば、彼は一度も「死」を口にしたことがなかったように思う。「死」のおそれを語ることも一切なかった。11月18日午後4時30分モニターの全ての数字がカタカタカタと下がって0になった。
お葬式の2日目の告別式では、その辞を矢島満子さんにお願いした。彼女の夫、矢島信一先生は、芦別教会の牧師であった。伊藤とは20歳前後からのつきあいであり、矢島家の皆さんとは、家族同然の交わりが続いていた。その信一先生も2013年3月にお亡くなりになっていた。満子さんは、信一先生と夫が、今は自由に行き来し、楽しんでいる様を語りながら、最後に自作の短歌でしめくくってくれた。
変はらずに手ごたへズシンと生きなはれ余市の浜の風となるとも
私はその時、ハッと気がついた。夫がその死をどのようにうけとめたかどうかより、その生を生ききりたかった思いに共感して、
「生きたかったんだね」
「ずっと生きれるよ」
と言ってあげればそれで十分だったのだと悟った。
そして今、夫の生命は普く偏在して風となり、水となり、光となり……、私の心の中に、そして多くの人の心の中に生きて在るということを確信することができるようになった。
「復活の生命となって、ずっとずっと生きてね」
と言ってあげたい。そういう境地に今、やっと立てた。